サラエボの花 2009/09/11 ザグレブ,クロアチア→サラエボ,ボスニア・ヘルツェゴビナ by Meg
8時55分の電車でザグレブを発ち、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都、サラエボに向かいます。
クロアチアのアドリア海に面したドブロヴニクに行く途中にちょっと寄り道です。
この電車もゆっくり進みます。
300km程の道のりになんと9時間!!
よくもまぁ、そんなに時間がかかってくれるもんです。
でも、コンパートメントは広々ゆったり使えるので至って快適でした。
この路線はバスも走っているのですが、電車にして良かった〜。
ちょいちょい走っては駅でのんびり停車して…という電車の中、私たちはコンパートメントを自分達の部屋のように好き勝手使って
くつろいでました。
昨日洗濯して乾かなかった服を干し、
寝たり、
本を読んだり、
パソコンゲームをしたり、
暇をもてあますことなく時間が過ぎていきました。
結局、1時間遅れの午後7時頃、サラエボの町が見えてきました。
意外に都会!!
しかし、駅に入る前、こんな建物が目に飛び込んできました…
そうです、サラエボはクロアチア同様、旧ユーゴスラビアからの独立において悲惨な紛争を体験しています。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争はクロアチア紛争以上に泥沼化し、多くの死者を出しました。
最近ちょっと本を読んで習得した旧ユーゴ紛争豆知識によると、
そもそも、ボスニア・ヘルツェゴビナは、セルビア正教を信じるセルビア人、カトリックを信仰するクロアチア人、
イスラム教徒であるムスリム人が共存する多民族国家でした。
ボスニア・ヘルツェゴビナの独立を求めるクロアチア人とムスリム人、それに反対するセルビア人との間で対立が深まっていき、
1992年、ついにセルビア側が戦争をはじめ、軍事力の優勢であったセルビア軍がクロアチア人とムスリム人の住むサラエボを包囲し、
大量の虐殺が行われました。
1995年デイトン合意にて終結するまでに、サラエボの市民だけで一万ニ千人が死亡し、国内の死者を20万人以上出した上、
200万人以上が難民となったそうです。
ボスニア戦争のこと知ってはいたものの、遠い場所で起こっていることのようで実感もなければ、
その深刻さも知りませんでした。
戦争がはじまった1992年といえば、私たちは11歳。
Masaに11歳の時何してた?と聞いてみると、「ドラクエやってたよ」というのんきな返事が返ってきました。
でも、そんなもんだよなぁ。
さて、駅前からトラムにのり、町の中心に位置するホステルにチェックイン。
にぎわう町中に出てみました。
買い物をしたり、カフェでお喋りしたり、ととても活気がありました。
夜のバシチャルシア
前に観た『サラエボの花』という映画を思い出しました。
戦争が終わっても十余年、活気よく生活する市民の心の中には何が刻まれているのでしょうか。