紛争の爪痕 2009/09/12 サラエボ,ボスニア・ヘルチェゴビナ by Masa
ボスニア・ヘルチェゴビナ、サラエボ、紛争、セルビア人、旧ユーゴ…。
かつて、テレビから聞こえてきた単語達から連想されるこの国の印象は、とても危険、というイメージ。
10年以上前に紛争が終焉を向かえ復興が進むとはいえ、やはり実際に肌で感じるまでは植え付けられた先入観が自分を覆っています。
世界史に疎く、当然のように知りませんでしたが、
最近の紛争以外にも第一次世界大戦のきっかけとなった事件がここサラエボであったそうです。
第一次世界大戦の発端となった、オーストリア皇太子暗殺事件現場
これまでの華やかな西欧の国々と雰囲気が異なるのは紛れもない事実。
ふと辺りに目を移すといたるところに弾痕が見られます。
ここで生活している大人のほとんどは紛争を経験しているはず。
彼らはどんな気持ちで当時と今を思うのでしょうか。
建物に残る紛争の後
当時の凄まじさを物語る…
紛争前の1984年に冬季オリンピックが開催されました。
その後、紛争での多数の犠牲者を埋葬するため、オリンピックスタジアムは墓地と化しました。
遠くにオリンピック塔が見える
ほとんどが1992〜1996年の紛争中に命を落とした
トラムでの移動中に感じたことですが、住民達は笑顔を見せることがほとんどありません。
なんとなく暗い雰囲気。
子供が笑顔でいるのを見るとホッとします。
紛争のトラウマもあるでしょう。
また、気候の影響もあるのかなと感じました。
この地は周囲を山に囲まれており、雨量も多め(一年の約半分は雨)で薄雲が常に上空を覆う気候。
僕らが滞在した間も日中は雲に覆われ、夕方になると決まって雨が降り出しました。
町の中心街から7km程西へとトラムで移動します。
この道は…
紛争中“スパイナー通り”という名前がつき、動く者は全て銃撃された、という場所。
今や道端の建物の弾痕がそのことを伝えるのみで、車や人がたくさん行き交い活気があります。
紛争後、無残な姿で残されていたオスロ・ボジェーネ新聞社も今はこの通り。
しかし、その近くの紛争前に建設が行われていた老人ホームは、今も廃墟。
ドアも窓もない…
紛争後、住む家を失った人がここに住処を求めたそうです
いかに自分が恵まれた環境に生まれ、育ったことを身にしみて感じた一日でした。
薬莢を加工したのお土産…。シャレにならん。